ダージリンの歴史と発展
ダージリンは歴史的にシッキム大国に属しているチベット系の仏教国でした。
1709年 隣の国のネパールからグルカ族が侵入してダージリンの土地を支配し拡張していきました。
1816年 グルカ族とイギリスの間で戦いが起こってイギリス東インド社が支配する事となりました。
1835年 イギリス東インド会社の領地となることからダージリン歴史は始まります。
1841年 ダージリン地区長官キャンベル博士が自宅で紅茶の栽培を試みます。
中国種の苗を植えてみたところ栽培に成功しました。
1852年 Tukvar, Steinthal, Aloobaniの三か所の商業茶園が出来上がりました。
1866年 その後茶園数は39か所まで拡大されます。生産量は21トンです。
1870年 栽培面積4,400ヘクタール、茶園数は56か所、生産量は71トンまで増えました。
1874年 栽培面積6,000ヘクタール、茶園数は113か所まで広がりダージリンティー生産は商業になくてはならないものとなりました。
1881年 紅茶輸出に力を入れていこととなり鉄道を導入する事で産業を充実させていきました。当時イギリスの産業革命の影響を受けて発明されたもので山岳地帯に栽培される紅茶の輸送に小型蒸気機関車(トイ・トレイン)が使われました。
1999年 小型蒸気機関車(トイ・トレイン)が世界文化遺産に登録されました。
2008年 ダージリンの人口の約50%が茶園の仕事に関わっています。茶園労働者は約54,000人に増えました。栽培面積17,818ヘクタール、茶園数は87か所、総生産数は11,600トンです。
イギリス人はダージリンの地を避暑地としての開発を進める事にしました。ダージリンの気候は涼しく200mを超える山岳部にあるがゆえにこの未開地を開拓する事に決めたのでした。インドの暑さになれないイギリス人にとって涼しいダージリンは最高の避暑地となりました。ここで紅茶の栽培をする事を考えたイギリス人たちはアッサム州から紅茶の苗を持ち込みました。これがダージリンの起源となったわけです。
ミルクと砂糖たっぷりの紅茶「チャイ」
18世紀 イギリスやヨーロッパでは中国のお茶を飲む事が流行っていました。当時、イギリスでは中国茶をそのまま飲んでいたそうです。
中国では緑茶のほかに紅茶を生産をしていました。イギリス人が紅茶を飲んだ時に肉料理の後味をさっぱりとさせる感じがよく合いました。
その後イギリスやヨーロッパでは紅茶を嗜好するようになりました。上流階級だけが楽しめるものでしたが一般大衆にまで広まるにはあまり時間がかかりませんでした。
紅茶の需要が急上昇し始めて中国からの輸入だけでは足りなくなりました。
19世紀になると山の中で自生している紅茶が発見されました。当時、イギリスの領土であったインドの東北部アッサム地方で発見されました。これを機会にイギリスはアッサム茶の生産に乗り出します。紅茶の研究、開発が重ねられていきインドの地で紅茶の栽培が盛んにおこなわれるようになりました。もともと紅茶を飲む習慣はなかったインド人ですが、イギリス人のまねをして紅茶を飲むようになったのです。良質な紅茶はイギリスに輸出されてしまうのでインドには低品質な紅茶が残りました。
インド人たちの間で美味しく紅茶を飲む事を試行錯誤した挙句、茶葉とミルクをを煮出して砂糖をたっぷりと入れた「チャイ」が生まれました。さらに香辛料を加えてオリジナルインド紅茶が出来上がりました。